かつて「炭鉱の町」 生活習慣病を抱える高齢者多く
日本の近代化を支えた三池炭鉱の坑口「万田坑」を抱え、かつては炭鉱の町として働き盛りの若者でにぎわった熊本県荒尾市。人口5万人弱(2024年8月末現在)のうち、3人に1人以上が65歳以上の高齢者になっています。特に糖尿病や高血圧、脂質異常症といった生活習慣に起因する病気を抱える人が多く、1人あたりの医療費は県内でもワースト上位の常連。市はこうした現状を打開しようと、約7,000種類のたんぱく質解析技術と人工知能(AI)などを使い、病気にかかる確率を予測するヘルスケアサービスを2022年度から導入するなどのDXに取り組んでいます。
再開発を機に「ウェルネス拠点×デジタル」を計画
5年以内に認知症を発症するリスクは平均の2.13倍、肺がんの発症リスクは2倍――。
「先のことは分からないけど、こんなのを見せられちゃね。少しでも孫と一緒に長生きしたいと思って」。荒尾市の保健指導を受けにきた75歳の男性は、そう笑顔をみせました。男性が将来の疾病リスクが予測できることに興味を持って保健指導を受けはじめたのは2023年度。「お酒の影響が大きい」という解析結果と、それを踏まえた保健師の指導で、焼酎の開栓日を記録することで飲み過ぎを自覚し、量を抑えました。肝機能の数値は少し改善していたといいます。
荒尾市が、ヘルスケアDXに取り組み始めたのは、市西部にある競馬場跡地の大規模な再開発計画がきっかけでした。再開発にあたり、どういう町づくりを進めるべきか。シンクタンクなどを交えて検討し、2019年にウェルネス拠点基本構想を発表。翌年には、市や企業、東京大学や東北大など産官学からなる推進協議会を構成して、デジタル活用に向けた「荒尾ウェルビーイングスマートシティ」実行計画を策定し、国土交通省「スマートシティモデル事業」にも採択され、健康への関心を促す技術の検証などに取り組んでいました。
後期高齢者医療費「県内ワースト」 健康に薄い関心
ヘルスケアは、実行計画の中で重要な位置付けでしたが、市には大きな課題がありました。「1人あたりの医療費が他の自治体に比べて明らかに高い。少子高齢化で働き手が減り、保険料収入が減るなか、医療費は減らないといった事態が予想されていました」と、荒尾市地域振興部スマート推進室の吉光周平副主任は話します。
実際、1人あたりの医療費は国民健康保険で熊本県平均より7万円ほど高く、後期高齢者医療制度では2022年で県内ワースト1位。県平均より14万円も高いというのが実情でした。その理由を探るなか、糖尿病など生活習慣による病気を抱える人が多い一方で、健康への関心は低く、保健指導を断ったり、中断したりするケースが少なくないという課題が見えてきたといいます。
とはいえ、住民の意識や行動を変えるのは容易ではありません。「行動変容」につなげるには、これまでの保健指導とは違うアプローチが必要でした。そこで、2022年度に導入したのが「NECソリューションイノベータ株式会社」が提供する「フォーネスビジュアス」でした。AIを用い開発された、わずか5mlほどの採血による、将来の疾病リスク予測とコンシェルジュと呼ばれる保健師の指導サービスを組み合わせたものです。推進協議会の中で、各社の様々な取り組みを検討するなか、「将来の疾病リスクを可視化し、住民の行動を変える」というコンセプトに惹かれたといいます。
血液検査でAIが発症リスク数値化 保健指導も手厚く
フォーネスビジュアスでは、まず医療機関で約5mlの血液を採取し、その中にある約7,000種類のたんぱく質の量を測定します。どのたんぱく質を多く含んでいるかといったパターンを解析することで、「20年、または5年以内の認知症発症リスク(5年以内のリスク提示は65歳以上のみ)」が16%、「4年以内の心筋梗塞・脳卒中発症リスク」が平均の1.22倍といった具合に数値で示し、医師から住民に知らせます。それを踏まえて、保健師の資格をもったコンシェルジュによる保健指導が行われ、生活習慣改善メニューを提案。1人あたり1回40分前後にわたる丁寧な保健指導を、年間で最大2回実施してサポートすることで、生活習慣を変えていこうという仕組みです。
「スタミナに関連する心肺持久力や、筋肉量と相関がある安静時代謝量など、一般的な健診にはない項目も見ることができます。スタミナや筋肉量の低下など、本人が何となく感じていた不調と検査結果がつながることで、より納得感を感じる方が多いように思います」と、保健師でコンシェルジュを務める小林汐梨さんは説明します。
初年度の2022年度は実証を兼ねて100人を対象に実施。住民の反応が好評なため、2023年度からは実装という形で200人、2024年度は300人と対象を拡大してきました。 加えて、国民健康保険加入者のうち先着3,000人という形で、過去2年の健診結果からこの先3年の検査結果を予測するAIを活用した「NEC健診結果予測健康シミュレーション」を行う試みも始めています。
企業のスピード感を役所内で共有 実装スムーズに
実装までスムーズに進んだ要因は、それだけではありません。「市役所内の合意形成、意思決定までがスピーディだったというのも大きな理由だったと思います」と、NECソリューションイノベータ株式会社プロフェッショナルの野元美穂さんは言います。
実装にかかった予算は1億7,000万円ほど。うち半分はデジタル田園都市国家構想交付金でまかなうことができました。残りは市の予算でしたが、「基幹となるスマートシティ実行計画や構想の段階から、スマートシティの取り組みについて説明を重ねてきたため、市役所内にも市議会にも目立った導入反対の意見はなかった」(吉光さん)と言います。
荒尾市は実装にあたり、部をまたいだプロジェクトチームを結成。チームを牽引する部長らが、市長や副市長といった上層部にすぐに伝えて意思決定できるルートを築いたこともスムーズに進める後押しになりました。「企業のスピード感を自治体内部で共有してもらったことで、一緒に進めようという連帯感ができました」と野元さんは言います。
「デジタル健康手帳」もスタート 医療費削減に期待
このほかにも、荒尾市は2024年2月から、通院履歴や薬の情報、健診結果などを管理したり、血圧や体温、歩数といった日々の健康情報を記録したりできる「デジタル健康手帳サービス」を始めました。蓄積した健康情報を活用し、きめ細かい保健指導を行うなど、健康作りに役立てたい考えです。
今後の課題は、こうしたヘルスケアDXをいかに市の財政に負担をかけずに提供していくかです。市は、熊本大学、医師会、民間企業などの産学官で連携し、医療費削減効果などを数値化して市の財政健全化につなげるプロジェクトにも取り組み始めています。
吉光さんは「少子高齢化や医療費の問題は、荒尾市だけの課題ではありません。私たちの取り組みから得られるデータが、全国の自治体の課題解決につながる一助になればうれしい」と話しています。