浅間山麓の高原地帯 観光客数はコロナ禍前に届かず
群馬県の西部で長野県と隣接する嬬恋村は、浅間山麓の標高1,000mの高原地帯に位置しており、夏場でも気温が20度前後と冷涼なことから、野菜の促成栽培地として知られています。特に有名なのが夏から秋にかけて出荷される夏秋キャベツで、出荷量は全国トップを誇ります。その農業とともに村の経済を支えているのが観光。北部の万座温泉やスキー場、南部の「鬼押出し園」をはじめとする浅間山の自然は、村の貴重な資源となっています。ただ、コロナ禍で観光客数が激減し、円安によるインバウンド需要が注目される今(2025年5月現在)でも、コロナ禍前の水準には戻っていません。そうした地域の経済課題を解決するべく、嬬恋村は、ビッグデータを活用して戦略的に観光情報を発信するなどの「嬬恋スマートシティ」を構築しています。村の人口減少が進む中、観光客増からリピーターをはじめとする「関係人口」の拡大へ、さらには移住者を増やす狙いがあります。

水害がきっかけ 情報共有システムを整備、拡充
「軽井沢と草津という有名な観光地に挟まれ、観光地としての嬬恋村の知名度がなかなか上がらない」。嬬恋村未来創造課の下谷博文課長補佐兼地域振興係長は、観光施策の課題をこう説明します。
嬬恋村は観光資源に恵まれており、万座温泉、鹿沢温泉、浅間高原、バラギ高原、白根高原の5つのエリアで多様な泉質の温泉が楽しめます。長野県軽井沢町に隣接する浅間高原エリアは避暑地として多くの別荘があります。
ただ、個々の観光エリアの知名度は低くないものの、面積約337㎢の広大な地域に点在しているため、村全体としての観光イメージとなる「嬬恋ブランド」を確立させることが難しかったといいます。数字にも表れており、コロナ禍前に年間約200万人が訪れて約90万人が村内に宿泊していた観光客は現在(2025年5月)、当時の約7割の水準にとどまっています。こうした中で嬬恋村は、ICT(情報通信技術)とビッグデータに着目し、観光情報を効率的に発信する施策に注力したのです。

契機は2019年の「令和元年東日本台風」でした。吾妻川が決壊して道路や橋が崩落するなどの水害に遭い、災害時の住民への情報共有が課題として浮上したのです。こうした課題を解決するため、2020年に総務省の「データ利活用型スマートシティ推進事業」に応募しました。採択に伴う国の支援を受け、アプリケーションの「LINE(ライン)」やWebサイトを使って住民向けの防災情報を届けるシステムを構築しました。
さらに2021年、総務省「令和3年度データ連携促進型スマートシティ推進事業」に採択され、スマートシティのプラットフォーム機能を拡充しました。防災情報を住民だけでなく観光客にも提供できるようにするとともに、防災という守りの施策から、地域の経済発展を目指す「観光・関係人口増加のための嬬恋スマートシティ」として、観光ビッグデータとICTを活用した観光情報の発信という攻めの施策に乗り出したのです。
位置データで周遊状況把握、来訪3万人の観光ビッグデータも活用
嬬恋村はこれまで、観光地でありながら、来訪目的や観光情報の入手経路など観光客にかかわるデータの分析を行っていませんでした。このため、まず観光客のニーズに合った観光コンテンツの提案や情報発信を行い、嬬恋村への来訪者や来訪回数を増やしていく戦略をとりました。
その礎となるビッグデータは、「モバイル空間統計調査」と「プレミアパネルアンケート調査」から得ました。モバイル空間統計調査は、スマートフォンの位置情報を活用しており、性別や年代といった属性、他に訪れた場所、宿泊の有無と日数を推定します。まずは2018年から2020年のデータから観光客数を推計し、嬬恋村の各エリアや周辺の市町村の周遊状況を調べました。
プレミアパネルアンケート調査は、スマートフォンを使って対象者のニーズを分析するもので2021年と2022年の計2回、関東近郊から嬬恋村を訪れた約3万人を対象に、来訪回数や来訪場所、嬬恋村を訪問する際にどんな旅行内容を希望しているかなどについて回答してもらいました。この結果、嬬恋村観光の魅力については、温泉や紅葉、雲海といった自然の景色をあげている人が多いことがわかりました。また、旅行のきっかけとして、グルメと回答する人も多かったことから、嬬恋村では、温泉、グルメ、自然というキーワードをもとに、万座、バラギ、浅間、鹿沢の4エリアにおいて中長期的な観光ビジョンを作成することにしました。ホームページなどでの情報発信でも、こうした嬬恋村の観光の強みが生きる画像やトピックを選定するようになりました。
嬬恋村や嬬恋村観光協会に観光ビッグデータの活用についてアドバイスした「公立大学法人前橋工科大学」の森田哲夫教授は、「観光客のニーズを知ることで戦略的に観光情報を発信できる」としています。
LINEで若い世代向けに発信 登録者6,000人に
嬬恋村の観光情報は、嬬恋村のLINEの公式アカウントと「友だち」になることで受け取ることができます。嬬恋村のアカウントでは、利用者が情報を取得しやすいように、「エリアから探す」「テーマから探す」「質問する」といった検索項目を設けました。

嬬恋村では、LINEを使った観光情報の発信は、「一般社団法人嬬恋村観光協会」が行っています。嬬恋村観光協会の三ツ野元貴事務局長は、「嬬恋村に観光に訪れるのは、50代から70代が多く、若い世代を呼び込めていない。LINEを通じて若い世代にも観光情報を届けるようにしたい」と意気込みます。嬬恋村は2015年度から「地域おこし協力隊」を受け入れており、三ツ野さんもその一人です。嬬恋村に魅了され、2016年度から3年間の地域おこし協力隊の任期を終えた後、移住しました。2024年度には嬬恋村観光協会のスタッフ15人中、地域おこし協力隊員が11人を占めており、外部の若者の目線で魅力を発信できる体制を整えました。
三ツ野さんは「美しい星空、四季の移ろいを感じる浅間山の景色など、地元の人が意識していない魅力がたくさんある」と語ります。こうした自然の美しさに触れる村での過ごし方をはじめ、村の名前の由来となった伝説にちなんで、「愛妻家の聖地」としての観光コンテンツの提案も進めていく考えです。

このほか、LINEのプッシュ通知機能を活用し、イベントやお得な観光プランだけでなく、地域の人々との交流から得た「新鮮な」情報の発信に注力しています。嬬恋村は別荘も多く、「桜の見ごろの時期に別荘地で過ごしたい」というニーズに応えるため、エリアごとに桜の見ごろを知らせています。観光客に向けては、現在地周辺の施設や店舗の情報をわかるようにしました。情報の即時性を重視しており、ユーザーと会話するLINEのチャットボット機能で観光客の質問に24時間以内に自動で返答できるようにしました。質問内容によっては、嬬恋村観光協会のスタッフが個別に対応しています。

嬬恋村の公式LINEの登録者数は現在、村民9,366人対し約6,000人(2025年5月時点)に達しました。嬬恋村と嬬恋村観光協会では、登録者への観光情報の発信を通じて嬬恋ブランドの確立と強化を目指しています。

リピーター=関係人口を増やし、移住へとつなげたい
嬬恋村役場未来創造課の黒岩孝義課長は、「人口減少が進む中で地域経済を支えるためには、今後、さらに観光業に力を入れていかなければならない。嬬恋村の観光客はリピーターが多く、来訪回数が増えることで、居住していなくても定期的に訪れる関係人口となる」と説明します。観光客として訪れた後、嬬恋村との往復で移住を決断するケースは少なくないといい、観光情報の発信が将来的に人口減少に歯止めをかけることにつながると期待されています。
また、嬬恋村は2022年、総務省「令和4年度地域課題解決のためのスマートシティ推進事業」にて採択され、行政手続きのオンライン化など、住民生活の利便性を高めました。関係人口や移住人口を増やすには、住民が住みやすい環境を整えることは欠かせません。前橋工科大学の森田哲夫教授は、「嬬恋村は防災、観光、市民生活という3つの柱で段階的にスマートシティの構築を進めてきた。この流れに沿ってICT技術の活用などによる住みよい環境が一段と整備されれば、移住を決断する人が増えていくでしょう」と話しています。