「温泉×デジタル」でコロナ後の集客目指す
「日本三大美肌の湯」と呼ばれる佐賀県の嬉野温泉を擁する嬉野市。年200万人近い観光客が訪れ(2022年実績)、旅館や土産物販売、グルメなどの観光産業は市の基幹産業となっています。一方、JR在来線の駅がない「鉄道のない町」でどう観光客を増やし、衰退を防いでいくかが長年の課題でした。それだけに、2022年9月の西九州新幹線開通には大きな期待がかかりましたが、開業目前に襲いかかったのが新型コロナウイルス感染症の流行でした。観光客は途絶え、市内の観光産業は壊滅的な影響を受けました。そこで、コロナ収束後を見据え、仮想空間「メタバース」を使ったPRや自動運転といった、デジタルを活用した地域づくりに市を挙げて舵を切り、取り組み始めたといいます。
「デジタルモール嬉野へようこそ。ゆっくりお散歩していってね」自身のアバターを選んで、実在の駅前広場を模した仮想空間に降り立つと、嬉野温泉の公式キャラクター「ゆっつらくん」があいさつしてくれます。マップのあちこちには「嬉野コイン」が散らばり、広場を巡って集めると、PC用の壁紙などがもらえるガチャを引ける仕組みです。正面の巨大スクリーンがあるスペースでは花火大会などのライブイベントが催されるほか、隣接する建物やブースからは嬉野温泉の中心地をウェブ上で散歩できる「うれしの散歩」や、旅館や茶畑といった観光拠点にワープして360度見回せる体験に参加でき、いろいろな嬉野観光を疑似体験できる仕掛けが盛り込まれています。
新幹線開通を機に脱“アナログな自治体”へ
「どちらかといえば、嬉野市は市役所の手続きなどでもDXの取り組みがやや遅れていた、アナログな自治体だったと思います」嬉野市新幹線まちづくり課の前川圭輔副課長は、取り組みを始めた当時をそう振り返ります。“アナログな自治体”からの急激な変容を余儀なくされたのが、2020年の新型コロナウイルス感染症の流行でした。観光業の低迷が、他の関連産業に影響し、若者の地域離れにつながるといった負のスパイラルが生じつつあるなか、状況を打破する大きな変革が求められたのです。デジタルを使えば、新幹線開業後のにぎわいに結びつくようなことが何かできるのではないか――。そう考えはしたものの、何をすれば良いのか、どこから始めればよいのかも分からない状況だったといいます。
そこで、「どうせなら他の自治体がやっていない新しいことに取り組んでみよう」と、目標に定めたのが、内閣府の「未来技術社会実装事業」への応募でした。採択されれば、事業実施後の実装に向けて複数年にわたって関係省庁の伴走支援が得られるほか、国の補助金申請などに向けた助言も得ることができます。翌年、2021年度の応募を目指し、1年間はじっくり計画を練るための準備期間として、まずはベースとなる調査と具体的な提案について、上限450万円で企業に公募をかけました。
メタバースと自動運転を二本柱に
複数寄せられた応募の中で目を引いたのが、株式会社ケー・シー・エス、株式会社福山コンサルタント、日本工営株式会社による「メタバースを活用した観光PR」と、新幹線駅と市街地を結ぶ「自動運転バス」を柱とする提案でした。これをもとに計画を練り、2021年度に未来技術社会実装事業に応募。採択を受けて、市長をトップとして、国土交通省九州地方整備局や総務省九州総合通信局などの担当者、市の部長、商工会長や温泉観光協会長、地元のバス会社などをコアメンバーとする協議会を設置して、計画の内容を詰めてきたといいます。
「新しい試みではありましたが、市長をトップとする肝いりの施策なので、市役所内の調整や民間の協力は比較的、得られやすかったのかなと思います」と、前川さん。5年間で見込んだ総事業費は約5億円。デジタル田園都市国家構想交付金の補助を受けて進めています。デジタルを使った観光PRについては、駅前広場をバーチャル空間化して自由に動き回れるメタバース空間「デジタルモール嬉野」のほか、360度撮影により約50の旅館や飲食店などの様子を見ることができる「うれしの散歩」、各旅館の温泉に入っているような視点を楽しめるVRゴーグルによる「バーチャル温泉体験」を軸に、コンテンツの充実を図ってきました。体験者からは「面白いね」といった好感触も得られています。
2022年、新幹線開業に合わせてデジタルモール嬉野がオープンした際には、モール内のガチャで特産品などがもらえるキャンペーンを実施。夏には花火大会のライブ中継も実施し、2024年8月の花火大会ライブ中継には東京や大阪などからのアクセスも含め1日で3,500人もの参加があり、チャットを通じて盛り上がる場面もあったそうです。
西九州新幹線の嬉野温泉駅が開業するとともに、駅に隣接した道の駅「うれしの まるく」も開業。新たな交流拠点の誕生を契機として進めてきた自動運転バスについても、2023年度は駅と市街地を結ぶ公道の往復運転に挑戦。今年度(2024年度)は実装を見据え、バスやタクシーのドライバーを対象にした体験会を実施したり、ぐるりと市街地をめぐる周遊運転や夜間の運転にも挑んだりする予定です。
モールに常連客を…実装へ費用など課題も
ただ、実装へのハードルは低くありません。キャンペーンやライブがない日のモールの入場者数は数十人という時も多く、いかに継続してモールを訪れてもらうのか。また、入場後に実際に現地に来訪したのか、どんな店や施設を回ったのかは把握できず、効果をどう検証すればよいのかといった課題も残っています。「広告などの収入で自走していくことも、実装では考える必要がありますが、現実にはなかなか難しい」と同課の岸川椋亮主事は指摘します。
自動運転についても、円安で車両価格が高騰し、1台あたりの購入費が当初想定していた金額から2倍近くに跳ね上がりました。ランニングコストも1台につき年間数千万円と見積もっており、複数台を運用する場合に、どう予算を捻出すれば良いのか決まっていないといいます。
「それでも、来年度は5年目。いよいよ実装に舵を切らなければなりません」と岸川さん。モールでは、デジタルコンテンツを少しずつ増やしたり、現実のお祭りなどと協力したりするなどしてアクセス増加を試みており、2024年度末には生産者と来訪者をオンラインで結び、特産品などをオンライン販売する「マルシェ」の実装にも挑み、自走への道筋を探っています。