岩手の高専発・歩き方で認知症の兆しを推定するアプリ
高齢化が進む日本では、認知症やその前段階とされる軽度認知障害(MCI:Mild Cognitive Impairment)の人が今後も増えることが予想され、認知症の兆候を早期に発見し、治療や予防することの重要性が高まっています。そこで、認知機能の低下にともなう、人の歩き方の特徴に着目し、短い距離を歩くだけで認知症の兆候の有無を予測するシステム「D-walk」を開発したのが、「磐井AI株式会社」(岩手県一関市)です。「一関工業高等専門学校(一関高専)」発のベンチャー企業としてスタートし、D-walkを組み込んだスマートフォンのアプリケーション(アプリ)を開発。全国から選抜された地域発ICTスタートアップがそのビジネスプランを発表する2024年度の「起業家万博」(総務省・国立研究開発法人情報通信研究機構主催)にも出場するなど、アプリを実用化させ、広く認知症の早期発見につながっていくことを目指しています。磐井AI株式会社代表取締役で一関高専の鈴木明宏教授に、システムの開発の背景や今後の事業方針を聞きました。

D-walkとは、どのようなアプリでしょうか。
現在、実用化を目指しているD-walkのアプリには、認知機能の衰えを早期に発見することと、歩行を促し認知症を予防するという2つの目的を持たせています。アプリを搭載したスマホを持って20秒から30秒ほど歩くだけで、認知機能の衰えの有無を推定する仕組みです。
スマホのセンサーを使って、ふらつきや歩く速度の変化などを計測し、様々な認知機能や歩行パターンを学習させたAIに解析させ、認知機能を推定します。アプリを利用することで、認知症の早期発見につなげるとともに、歩行を習慣化させて認知症の予防効果も期待できると考えています。また、計測結果をもとに、歩数、歩行時間、歩行速度など認知症予防に向けた個別のアドバイスも自動で行います。アプリの実用化に向けては現在、生命保険会社の商品やサービスに組み込む形などを検討しています。
認知症と歩行形態の関係について研究を始めたきっかけは。
もともと東北大学大学院医工学研究科で、人間の歩行形態とエネルギーの消費量について研究をしていました。私が専攻していた医工学では、医学の課題について、データを活用するなど工学的なアプローチで解決を目指します。こうしたデータ分析と結びつく医学の課題を探している時に、東北大学医学部付属病院老人科(当時)の中村貴志先生(現・福岡教育大学教授)の研究に心をひかれ、1995年秋に飛び込みで電話をしてみたのが今回の研究のきっかけになりました。中村先生は、高齢者を診察する中で、認知症の人の歩き方には、すり足やふらつきがあるなど一定の特徴があることに着目していたのです。そこで、私が認知症の人の歩行データを分析する形で共同研究が始まり、まずは認知症と歩行形態との間にどんな相関関係があるかをきちんと調べることになりました。以降、約30年かけて様々な研究を行い、相関関係を実際に裏付けていったのです。
約30年間の研究成果を教えてください。
認知機能が低下すると、どこをどのように歩いているのかわからなくなり、風が吹いたり、車が通り過ぎたりするだけでよろめきます。中村先生や、上城憲司先生(現・宝塚医療大学教授)との共同研究の一環として、認知症予防事業に参加している地域在住の高齢者や岩手県内の高齢者施設の協力を得て、歩行時の加速度や角速度のデータを収集し、解析を進めました。その結果、歩行形態と認知機能の低下との間の関連性を確認しました。認知機能に問題がない人と衰えている人では、歩行の際の加速度や角速度などの歩行パターンに違いがあることが明らかになりました。認知機能が低下した人の歩行パターンをAIに学習させ、認知機能の低下を推定し検知できるシステムも開発しました。技術の進歩により、2013年からAIで大量のデータを分析できるようになったことに加え、岩手県や和歌山県内の65歳以上の方々約500人に歩行データの収集に協力してもらえたことで、分析の精度が上がり、歩行形態から認知機能低下の兆候を検知して予防につながるアドバイスもできるD-walkシステムを2022年に完成させました。

起業にいたった経緯を教えてください。
2022年には、多くの賞をいただきD-walkの研究成果をお披露目できました。AIを活用した事業創出を競う「第3回全国高等専門学校ディープラーニングコンテスト(DCON)」で最優秀賞を受賞したのをはじめ、「第10回プラチナ大賞」で大賞・経済産業大臣賞をいただきました。
こうした受賞で獲得した賞金などを活用し、D-walkシステムの事業化を目指し、2023年2月、一関高専発のベンチャー企業として磐井AI株式会社を立ち上げました。一緒に研究を進めていた当時、一関高専専攻科1年だった菊地佑太取締役、石井聖名(せな)取締役、佐藤汰樹(たいき)取締役の学生3人と私の計4人でスタートしました。一関高専では、教員と在学生による株式会社の起業として初のケースとなりました。また、2024年度の「起業家万博」にも出場することができました。

高専発のベンチャーの強みはどんな点にありますか。
磐井AI株式会社は取締役4人、顧問1人の会社です。本社オフィスは一関高専の施設内に構えました。校内にはパソコン、計測機器、製造装置など研究開発に必要な設備も整っているため、賃料も含めて費用をかなり低く抑えることができています。学生にスタートアップについて学んでもらう機会の創出など、国が高専生の起業支援を強化していることも追い風になりました。一関高専でも、教員が兼業としてスタートアップにかかわることが認められ、2024年6月に私が代表取締役に就任しました。高専にはモノづくりに強い学生が多いことも強みです。製品開発にあたっては、3Dプリンターを活用して試作品も自分たちで作りましたし、D-walkのアプリ自体もメンバーが開発しています。

今後、どのようなサービスを構築していきたいですか。
令和6年版高齢社会白書によると、2025年時点で65歳以上の約4人に1人は、認知症またはMCIの人が占めるとされています。その一方で、認知症は軽度の段階で治療すれば回復する可能性が高まり、最大で約40%の人が回復するというデータもあります。認知機能の衰えを早期に発見し、治療することは日本全国待ったなしの課題となっているのです。
認知機能の低下は、歩行だけでなく、表情からも読み取ることができます。私たちは、認知機能に特化した研究を長年行ってきた蓄積があるため、今後は表情から認知機能の衰えや予防効果を可視化できるシステムの開発も進めていきたいと考えています。スマホで自分の顔を撮影しただけで、認知機能の状態がわかり、毎日セルフチェックができるようなサービスをつくりたいと思っています。さらに、歩行、表情、睡眠などの状態などをチェックし、個別にアドバイスを提供することで、認知機能の低下を予防する新たなエコシステムの構築を目指しています。
私がこの研究を始めたころ、母が70代で認知症を発症しました。認知症と診断される前から、母の歩き方に違和感を覚えていましたが、当時はそれが認知機能の低下の兆候であるとは気づきませんでした。もしもっと早く、認知症と歩行の関係を知ることができていれば、母の認知症を予防できたのではないかという思いが、今でも心に残っています。デジタルの力を活用して認知症を予防し、より多くの人が日々、前向きに取り組めるような社会づくりに貢献したいと考えています。
磐井AI株式会社 代表取締役
鈴木 明宏
すずき あきひろ
2000年株式会社アイ・ティ・リサーチを設立し、日常生活行動記録計の開発事業に従事。事業活動と並行して、東北大学大学院医工学研究科で医工学を専攻。2011年、東北大学大学院医工学研究科修了、医工学博士を取得。2013年、株式会社アイ・ティ・リサーチを退職し、同年4月、一関工業高等専門学校に着任。機械・知能系教授として研究と教育に従事する。主にセンサー解析と機械学習技術などを用いて人間の状態を推定する、人間医工学に関する研究に取り組んでいる。2023年2月に教授職と並行し、磐井AI株式会社を設立し、取締役会長に就任。2024年6月から磐井AI株式会社代表取締役。