DXの根本は変革。粘り強く、すべての人の生活向上へ
長野県のほぼ中央、松本盆地の南端に位置する塩尻市は、太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝として古くから発展してきました。主な産業は、精密機械や電気機械をはじめとする製造業で、ワインの世界的な銘醸地としても知られています。人口は6万5,435人(2024年4月)で緩やかな減少傾向にあるなか、子育て中の女性や障がいを持つ方たちの在宅就業支援を行う「KADO」や自動運転など、塩尻市の強みを生かした「新たな価値の創出と変革」に取り組んでいます。その中核を担っているのが、同市商工観光部先端産業振興室の太田幸一室長です。「変革(トランスフォーメーション)」にかける思いと、今後の展望について聞きました。
塩尻市がDXに取り組んだきっかけについて教えてください。
塩尻市がICT施策に取り組んだ歴史は長く、1996年に全国で初めて市営のインターネットサービスプロバイダーを開設し、2000年には総務省の支援をいただき他地域に先駆けて市内拠点に光ファイバーも敷設しました。その後も本市はICT施策に注力してきましたが、取り組みを通じて失敗、成功を体験し、デジタル技術活用の感覚を掴むことが出来たと思います。
予測困難な時代において、刻々と変化する状況に対し、我々行政もアジャイルに対応し変革し続けていくことが必要だと思います。そのための手段として、塩尻市の強みでもあるデジタル技術の活用に着目し、DXに取り組むべきだと考えました。ただし、個人的な考えにはなりますが、あくまでも根底にあるのはデジタルの活用ではなく、トランスフォーメーション=変革を実現することです。
これまでの取り組みの経緯について教えて下さい。
私は2005年に関東経済産業局に1年間出向したのですが、そこで企業のスピード感や施策を実現させるためのノウハウを学びました。その後、市に戻って最初に担当したのが、組込みシステムの産業拠点となる「塩尻インキュベーションプラザ(SIP)」の立ち上げです。家電製品や産業機器などに搭載されるコンピュータシステム(組込みシステム)分野において、全国的に不足していたエンジニアの育成やベンチャー・中小企業の支援を目的としたプロジェクトでした。2006年にSIPを立ち上げ、企業や信州大学と連携して人材育成に取り組むなど、その後の取り組みにつながっていく産官学連携の基礎を築きました。
大きな転機となったのが、2009年に厚生労働省の「ひとり親家庭等の在宅就業支援事業」をやってみないかという声がかかったことです。しかし、当時はノウハウがなく、失敗するリスクもあったため、市役所内には「人的余裕がない」「知見がない」「うまくいかなかったら誰が責任をとるのか」といった反対意見が大勢でした。一方、当時私は市が100%出捐する「一般財団法人塩尻市振興公社(公社)」に出向しており、設立したばかりの公社において新規事業を立ち上げるミッションがありました。「SIPで築いた人脈やノウハウを最大限に活用すれば、市が無理でも公社なら挑戦できるのではないか」。そう考え、最終的には信頼する数名の市職員と協力して事業に応募しました。結果、事業が採択となり、2010年にひとり親家庭を対象とした在宅就労支援事業を開始し、これが現在の公設クラウドソーシング(インターネットを通じて不特定多数に業務を発注する業務形態)・自営型テレワーク推進事業「KADO(カドー)」につながります。
国の支援があるのは2年間。その期間中に自走できるまで事業を育てるのはとても難易度が高いことは分かっていました。しかし、万一、自走できなかったとしてもデジタルスキルを持った人材は残ります。実際に事業を始めてみると、参加された方の熱意は想像以上でした。参加者が受講するリスキリングの研修は、月52時間を半年、月26時間を1年という厳しいものでしたが、80人以上が修了し、平均で1人あたり3つのIT関連の資格を取得しました。一方で、実績がない人や組織が企業や地方公共団体から仕事を受注することは難しく、国の支援が終わった後、KADOの運営予算は数百万円まで減りました。それでも続けることができたのは、中核となる「場所」ができたこと、協力してくれる人材が集まったことに加え、ひとり親家庭の困窮を目の当たりにして「この仕組みをあきらめちゃいけない」という原体験があったからだと思います。
受注額が年数百万円という低空飛行が5年ほど続きましたが、2016年、SIPで培った人脈から、AI関連データ入力業務の引き合いがあり、状況は変わり始めました。これを転機として、業務体制や研修内容をクライアント企業のニーズに応えられるように大幅に見直し、市がバックアップしているという信頼感や、「働きたいけど働けないすべての人が安心して働ける地域社会の実現」という目的への理解などを背景に、クラウドソーシングとしてのQCD(品質、コスト、納期)も認められて事業が拡大。今では約400人が就労し、受注額も約3億円に増えました。
KADOが軌道に乗り始めた2019年の夏頃、クライアント企業から持ちかけられた提案が「自動運転」の実証事業でした。そのクライアント企業からは自動運転に使われる3次元高精細地図データの作成業務を受注していましたが、業務で培った信頼関係やKADOのリソースを活かし、自動運転の社会実装に向けて一緒にチャレンジしないか、という提案に対し、数ヶ月という短期間で庁内の意思決定や関係者調整を行い、2020年1月に複数企業と包括連携協定を締結。そして実装に向けた具体的な手段として経済産業省の「地域新MaaS創出推進事業」に応募しようということになり、官民連携で戦略を練るところから始めました。これが現在の地域社会DXの原点となっています。
ちょうど同じ頃、新型コロナウイルス感染症の流行や、国のDX施策推進もあり自治体DXに取り組む必要性も出てきていました。そこで、2021年に「塩尻市デジタル・トランスフォーメーション戦略」を策定することになったのです。
その戦略とはどのようなものでしょうか。
目的をひと言で言えば、「市にかかわるすべての人の生活の質(QOL)の向上」です。戦略は自治体DXと地域社会DXで構成されていますが、この2つが協調・連動することがDXを推進する両輪になります。というのも、戦略を策定する際に官民連携、行政改革、行政経営、情報政策などの担当者とも話し合ったのですが、地域社会DXを進めようとすれば、どうしても人材や予算が必要になります。そこで、行政内部の専門性が低く定型的な業務をデジタル技術の活用で効率化し、その結果として“浮いた”ヒト・モノ・カネといったリソースを専門性が高く非定型な業務に移行し、官民連携でチャレンジするという考え方が、戦略の基本理念につながりました。DX推進にあたっては、DXの担当部署だけでなく、企画政策や人事もそれぞれの役割を担い、部署横断かつ産官学と連携して進める体制になったことも大きなポイントです。
戦略では地域社会DXを産学官民共創で推進するための産業クラスター形成を掲げていますが、その拠点施設となる「地域DXセンターcore塩尻」を2023年6月にオープンしました。公社が運営を手がけており、KADO、自動運転も含めた多様な事業の主体となっています。地方公共団体に代わり、アジャイルな対応ができる公社が地域DXの推進役となることで、民間企業のスピードに合わせた迅速な事業展開や横串的な連携を可能にしています。
DXを進めていくにあたって重要だと考えていることはありますか。
住民のニーズをきちんととらえることは言わずもがなですが、重要なのは「属人性に頼らない」ということです。スタートは1人の熱意がきっかけでも良いのですが、変革を続けていくのであればチームを作ることが不可欠です。
次に重要なのが、「バイアスにとらわれない」ことです。変革において最もネックとなるのが慣習、思い込み、偏見のようなバイアスだと考えています。多様性のあるフラットなチームで議論を重ねれば、バイアスは働きづらくなります。私自身もそうですが、過去の成功体験に引きずられ無意識のうちにバイアスにとらわれそうになることがあります。それを回避するためにもフラットなチームでDXを担うことが重要です。
チャレンジできる環境も重要です。戦略と同時期に策定した塩尻市役所の人材育成活用基本方針では、「一人ひとりのやる気とチャレンジを応援する」ことが明示されています。そうしたトライ&エラーを許容する雰囲気がDXを後押ししているように感じます。
また、塩尻市役所では、外部機関に派遣していた職員や、民間企業からの転職者、省庁からの出向人材といった共創・越境・変革といったマインドを持った人材を、各部署に分散して「マイノリティ」にしてしまうのではなく、変革を担う部署に集約したことがうまく進んだ要因の一つだと考えています。
さらに言えば、着実に成果を出し続けることも重要です。民間と連携する際にも成果という裏付けは必要ですし、職員にとっても成果につなげたという自信になり、他部署に異動しても変革を続けていく原動力になります。
実装も含めた今後の方向性について聞かせて下さい。
これまでと同じく「自治体DX」と「地域社会DX」の両輪で進めていくことに変わりはありません。KADOや交通DXといった取り組みの継続はもちろんですが、産学官民共創の拠点であるcore塩尻をベースに様々なチャレンジをしていきたいと考えています。そのためには、理念や取り組みに共感し共創していただける民間企業・大学・研究機関・省庁・他の地方公共団体等、外部のプレイヤーを巻き込み続けることが重要だと思います。
また、全てのチャレンジは社会実装を目指す取り組みとなりますが、実装で重要なのは収益構造を作れるかどうかだと思います。公益性、持続性、必要性があれば、地方公共団体が一定の予算を負担しても良いと考えていますが、まずは経済合理性に基づき収益事業として事業をデザインしていく必要があります。KADOも地方公共団体の財政負担なしに自走することを目指しており、軌道に乗り始めて以来、少しずつ行政の負担を減らしているところです。
「本当に市民が喜ぶ施策か、生活向上につながるか」。その原点を常に意識しつつ、これからもDXにチャレンジしていきたいと考えています。
塩尻市商工観光部先端産業振興室長
太田 幸一
おおた こういち
1976年、長野県塩尻市生まれ。2000年に塩尻市役所入庁。塩尻インキュベーションプラザ「SIP」、自営型テレワーク推進事業「KADO」、シビックイノベーション拠点「スナバ」、自動運転・MaaS、塩尻市DX戦略、地域DXセンター「core塩尻」など、DX・地方創生領域での新規施策や施設の立ち上げを担当。2022年より現職。