山間部では地方公共団体初のサービスシステム構築
長野県南部に位置し、南アルプスと中央アルプスに囲まれた伊那市。全人口に占める65歳以上の割合が高まる中、自動車の運転免許を返納するなどして買い物が困難となっている人を対象に2020年から買い物支援サービス事業を展開しています。山間部では、国内の地方公共団体で初となるドローンを使った商品の配送サービスシステムを構築しました。
買い物困難の高齢者へ、見守りも兼ねてお届け
伊那市の山間部にある長谷地区。1機のドローンが山あいから姿を現しました。約4.5km離れた市内からスーパーの商品を運んできたのです。公民館前にドローンが着陸すると、同地区に住むボランティア、原田照子さんが手際よく、ドローンが運んできた商品を取り出し、慣れた手つきでバッテリーを交換します。原田さんは商品を各家庭に届けます。
伊那市の買い物支援サービス「ゆうあいマーケット」事業の一コマです。サービスの対象となる地域の住民は、スーパー「ニシザワ高遠食彩館」の商品を電話やケーブルテレビの通信機能を使って平日の午前10時30分までに注文します。注文を受けた店では、担当者が売り場から商品をピックアップし、専用車とドローンを使って配達する仕組みです。住民の見守りを兼ねて、商品は手渡しするようにしています。ゆうあいマーケットの利用者でもある原田さんは、「朝、注文するとその日のうちに商品が届くので、長谷地区ではとても助かっています」と笑顔で語ります。
伊那市は2016年度から新産業技術推進協議会を設置し、官民協働で新産業技術を活用した地域課題解決と新規事業の創出に注力してきました。伊那市の65歳以上の人口の割合を示す高齢化率は、2020年の32.7%から2050年には45.3%に上昇すると予測されています。特に高齢化が進む中山間地域では買い物が困難になる人が増えるという課題が浮き彫りになりました。こうした課題の解決策として、ゆうあいマーケット事業の構想が生まれました。
新しい技術で新しいものを ゼロからのスタート
「新しい技術を使って新しいものをつくる事業です。ドローンの飛行コースを含めて最初の枠組みを決めるまでが大変でした。多くの方の協力があって実現できました」
ゆうあいマーケット事業に当初から関わってきた伊那市企画部企画政策課・集落支援員の伊藤小百合さんは、そう当時の様子を語ります。
2020年8月の事業開始時、ドローンの配送サービスは、まず山間部の長谷地区が対象となりました。長谷地区は高齢化率が約5割と市内で最も高く、伊那市社会福祉協議会が2017年に実施した調査では「買い物に不便を感じている」世帯の割合も44.4%と市内で最も高く、市全体の28.1%を大きく上回っていたからです。市内を流れる三峰川に沿って集落が点在し、川の上空を専用の航路として利用できるという地理的な条件も持っていました。
機体、注文システムや地図提供 民間の力結集
2018年10月から 、市が「KDDI株式会社」と協業で開発にあたったドローンを使った買い物支援のシステムには、民間企業の技術を結集しました。
たとえば、距離は三峰川沿いの「道の駅南アルプスむら長谷ドローンポート」から長谷地区までの最長10km、配送する重量は最大5kgと設定しましたが、当時、重さ5kgの荷物を10km離れた場所まで運べる機体がありませんでした。そこで、機体メーカーの「プロドローン株式会社」に開発を依頼。だれもが使いやすいようにコンテナの扉の開け閉めやバッテリー交換などの基本操作を簡素化するなどの工夫も盛り込みました。
また、注文システムは、ケーブルテレビの通信機能を活用し、「ジャパンケーブルキャスト株式会社」と「伊那ケーブルテレビジョン株式会社」が共同で開発。利用者は商品の料金をケーブルテレビの料金に合算して支払うことができるようにしました。
加えて、ドローンは、KDDI株式会社のモバイル通信ネットワークを使った遠隔監視と制御により、人間の目視に頼らず自律飛行させることにも成功しました。2020年8月のサービス開始までの間、150回以上の飛行テストを行ったといいます。事業を担当した「KDDIスマートドローン株式会社」の立岩正之さんは、「河川上空を専用航路とする配送ルートは国内初で、1年10か月の間、道なき道を歩いていた気持ちでした。季節による環境の変化も考慮しなければなりませんでした」といいます。
伊那市は総務省の地域活性化起業人事業を活用して民間企業からデジタル技術に知見のある人材を受け入れており、こうした人材が市と民間企業との橋渡し役になりました。立岩さんは「システム構築は新しい挑戦の連続でしたが、伊那市に民間企業の考え方を理解している人がいることで意思疎通をうまく図ることができました」と話しています。
サービス開始後、他の地方公共団体からドローンについての問い合わせが増え、2024年8月までの4年間で実証実験を20か所以上で行いました。立岩さんは「『伊那市モデル』で、全国で買い物が困難な状況にある人を減らしたいです」と言葉に力を込めます。
また、「株式会社ゼンリン」は、運航管理のための地図の提供や実証実験のサポートなどを担いました。株式会社ゼンリンのスマートシティ推進部の梁田真吾さんは、「スマートドローン物流の黎明期にかかわることができました。ドローンは最も高いところで地上から120m上空を飛行します。10kmのコース中、2kmごとに区切って飛ばしながら地上からの操作性を確認してコースを決めるなど試行錯誤の連続でした」とプロジェクトを振り返ります。
「新技術採用は面白い」 他の施策へも好影響
ゆうあいマーケット事業は、長谷地区からスタートし、市街地などドローンを使わずに商品を配送する地域も加えてサービスを拡大しています。長谷地区には2024年3月末時点で、累計277回、1,122品をドローンで配送しました。導入にかかったイニシャルコストは2億1,151万円で、このうち地方創生推進交付金で1億1,548万円をまかなうことができました。ランニングコストは、ドローン運航経費など年間3,035万7,000円となっています。
事業を担当する伊那市企画政策課の村田和也・新産業技術推進係長は、ゆうあいマーケット事業について、「市街地にも対象を広げたことで売上が増えています。事業を開始して5年目を迎え、利用者の増加に向けてさらに選択肢を広げて考えていきたいです」と今後の方針を語ります。
また、全国初のゆうあいマーケット事業の成功を契機に、担当する職員のデジタル技術活用に対する意識にも変化がありました。企画政策課の井上諒さんは、「ドローンなど新技術を取り入れた施策は、とても面白くやりがいがあり、他の施策を考える参考になっています」といいます。民間企業から伊那市に出向している企画政策課・新産業技術コーディネーターの福原武さんも「全国から視察も多く、職員もより社会実装、運用に重きを置くようになり、よい形を作っています」と話しています。